ちょっとした上辺の関係
「もし身近な場所でとんでもない悲劇が起こったら、皆さんはどう反応するんだろう?」著者は何となくこんなことを思いながら、6人の同僚と土曜日の晩御飯を食べていた。その料理はまさしくもアフリカにいる外国人らしい:パスタにサラダ、赤ワインとジュースを備え、締めはクッキーとアイスクリーム。もちろんすべてが手作り。まあ、単なる普段料理に使える食材や調味料が不足してるので、これはすでに驚くほどの豊富。7人はカジュアルな会話をしながら、食事を終わらせ、ポップコーンをつまみながら夜遅くまで映画鑑賞…
一見して「お前同僚と仲良くやってるんじゃん」と言えるぐらいのレベル。たぶん皆さん土曜夜のシンプルな楽しみを世界の向こう側にいる家族、親友、彼氏などに伝えたら、こんな評価ぐらいもらえるだろう。だが、もちろん「とんでもない悲劇」については語らないだろう。晩御飯中にもちょっとした「不幸な一日」にワインで乾杯するだけで、その後、その話は一切出てこなかった。次々の冗談的なストーリーと恋する実家の○○が会話の主なトピックとして入れ替わり、誰もその悲劇についてしゃべりだす勇気もなかっただろう。
で、その悲劇とは?それは現在のアフリカで悲しいほど頻繁に起きている殺人事件。この場にいない一人の同僚。何月も待ちに待ってた彼氏との楽しい二人旅。でも行先で待っていたのは暴力を振り慣れてる地元の強盗。要求に従わない彼氏は彼女を守るため体を前に張り、日中にも関わらず刃物で何度も突き刺され、そのまま運ばれた病院で死亡…まるでどこかの小説家が想像したような展開だが、残念ながらこれはすべて事実。「だれだれが事故死、だれだれが殺害され、だれだれが行方不明」との「アフリカは危険だぜ」コレクションにまた新たな一例…
話は電話とメールで上司から伝えられた。特に感情もなく事件の経緯を語られただけで、「何か新たな情報と手伝いの必要があったらまた連絡する」とのこと。でも一般の人間としてこんな話を聞いて冷え冷えとしないはずはない。だってアフリカのとある大都市の路地裏で強盗に出会うことはこの著者をはじめ、冒険者精神と好奇心が満載な同僚全員誰にでもあり得ることだからだ。「今日は君で、明日は私」みたいな感覚に怯えるのは十分理解できる。そしていくら他人の「アフリカは危険だぜ」話を聞いても、こんなに身近だったら恐怖が突然リアルになる。
だから無感情な対応は逆に不気味と感じる。当分そのリアルな恐怖を隠すのもありだが、「隠す=勝つ」形式は絶対成り立つはずがない。晩御飯での笑いもそうだし、余計プロフェッショナルな手付きで書かれたこの件についての連絡事項もそう。怖さと悲しみを避けるため悲劇についての会話を拒否するほど、この先身分安全についての不安と被動的に接することになってしまう。そして多分、またどこかのある外国人が地元の強盗を面するニュースが入ると、怖さと悲しみは理性もなくすぐ戻ってくる。晩御飯での表面的な笑いはいつかその怖さと悲しみを隠せなくなる。
しかし、逆に考えてみると、その怖さと悲しみは実際存在するのかも疑問になる。この業界に入り、こんな発展途上な場所に来るのは何かの犠牲が必要だと同僚はみんな覚悟しているはず。アフリカ何年のベテランとして、たとえその犠牲が命そのものだと考えていなくても、身体的な傷害を受ける可能性についてはもう敏感ではないはず。つまり、悲劇の主人公にはモラル的に正しい行動である一定な同情を示すが、実際彼らはこんなことをあくまでもアフリカをはじめとする不幸な貧乏世界を救う上でしょうがないボトルネックだと思ってるかもしれない。
こんなことを考え、著者は最近印象に残る「パレード」という邦画を思い出した。同じアパートを同棲する5人がそれぞれの犯罪や人柄の悪さなどネガティブな一面を知りながらも何となくフレンドリーな同棲状況を維持するためそれらのネガティブをすべて徹底的に隠す。それは人間がどのぐらい苦労して自分らの居場所を作り上げ、守り続ける物語である。「こんなことは空気を読む日本人同士でしか起こらない」とそんなに気にしてなかった「パレード」の社会的批判もこの土曜夜、あくまでも憂晴しで空っぽな冗談と映画鑑賞でかなり心に響いた。
しかも、晩御飯を食べる7人は単なるハウスメートでもない。利害関係がある同僚であり、なんだかんだのオフィスポリティックスで競争しあう存在である。その中の一人に巨大な不幸が訪れるその日、7人はそれに立ち向かうモチベーションなんて一切なかった。個人的な怖さもあるが、他人行儀として見つめながら、見た目のチーム精神を振り舞うはお互い本当の感情が足りない証拠でもある。この外国人が極めて少ないアフリカの一角でも、人間はやはり他人と距離を置くのが好きだった。ちょっとした上辺の関係、それは本当に万国共通の真理かもしれない。
一見して「お前同僚と仲良くやってるんじゃん」と言えるぐらいのレベル。たぶん皆さん土曜夜のシンプルな楽しみを世界の向こう側にいる家族、親友、彼氏などに伝えたら、こんな評価ぐらいもらえるだろう。だが、もちろん「とんでもない悲劇」については語らないだろう。晩御飯中にもちょっとした「不幸な一日」にワインで乾杯するだけで、その後、その話は一切出てこなかった。次々の冗談的なストーリーと恋する実家の○○が会話の主なトピックとして入れ替わり、誰もその悲劇についてしゃべりだす勇気もなかっただろう。
で、その悲劇とは?それは現在のアフリカで悲しいほど頻繁に起きている殺人事件。この場にいない一人の同僚。何月も待ちに待ってた彼氏との楽しい二人旅。でも行先で待っていたのは暴力を振り慣れてる地元の強盗。要求に従わない彼氏は彼女を守るため体を前に張り、日中にも関わらず刃物で何度も突き刺され、そのまま運ばれた病院で死亡…まるでどこかの小説家が想像したような展開だが、残念ながらこれはすべて事実。「だれだれが事故死、だれだれが殺害され、だれだれが行方不明」との「アフリカは危険だぜ」コレクションにまた新たな一例…
話は電話とメールで上司から伝えられた。特に感情もなく事件の経緯を語られただけで、「何か新たな情報と手伝いの必要があったらまた連絡する」とのこと。でも一般の人間としてこんな話を聞いて冷え冷えとしないはずはない。だってアフリカのとある大都市の路地裏で強盗に出会うことはこの著者をはじめ、冒険者精神と好奇心が満載な同僚全員誰にでもあり得ることだからだ。「今日は君で、明日は私」みたいな感覚に怯えるのは十分理解できる。そしていくら他人の「アフリカは危険だぜ」話を聞いても、こんなに身近だったら恐怖が突然リアルになる。
だから無感情な対応は逆に不気味と感じる。当分そのリアルな恐怖を隠すのもありだが、「隠す=勝つ」形式は絶対成り立つはずがない。晩御飯での笑いもそうだし、余計プロフェッショナルな手付きで書かれたこの件についての連絡事項もそう。怖さと悲しみを避けるため悲劇についての会話を拒否するほど、この先身分安全についての不安と被動的に接することになってしまう。そして多分、またどこかのある外国人が地元の強盗を面するニュースが入ると、怖さと悲しみは理性もなくすぐ戻ってくる。晩御飯での表面的な笑いはいつかその怖さと悲しみを隠せなくなる。
しかし、逆に考えてみると、その怖さと悲しみは実際存在するのかも疑問になる。この業界に入り、こんな発展途上な場所に来るのは何かの犠牲が必要だと同僚はみんな覚悟しているはず。アフリカ何年のベテランとして、たとえその犠牲が命そのものだと考えていなくても、身体的な傷害を受ける可能性についてはもう敏感ではないはず。つまり、悲劇の主人公にはモラル的に正しい行動である一定な同情を示すが、実際彼らはこんなことをあくまでもアフリカをはじめとする不幸な貧乏世界を救う上でしょうがないボトルネックだと思ってるかもしれない。
こんなことを考え、著者は最近印象に残る「パレード」という邦画を思い出した。同じアパートを同棲する5人がそれぞれの犯罪や人柄の悪さなどネガティブな一面を知りながらも何となくフレンドリーな同棲状況を維持するためそれらのネガティブをすべて徹底的に隠す。それは人間がどのぐらい苦労して自分らの居場所を作り上げ、守り続ける物語である。「こんなことは空気を読む日本人同士でしか起こらない」とそんなに気にしてなかった「パレード」の社会的批判もこの土曜夜、あくまでも憂晴しで空っぽな冗談と映画鑑賞でかなり心に響いた。
しかも、晩御飯を食べる7人は単なるハウスメートでもない。利害関係がある同僚であり、なんだかんだのオフィスポリティックスで競争しあう存在である。その中の一人に巨大な不幸が訪れるその日、7人はそれに立ち向かうモチベーションなんて一切なかった。個人的な怖さもあるが、他人行儀として見つめながら、見た目のチーム精神を振り舞うはお互い本当の感情が足りない証拠でもある。この外国人が極めて少ないアフリカの一角でも、人間はやはり他人と距離を置くのが好きだった。ちょっとした上辺の関係、それは本当に万国共通の真理かもしれない。
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