Searching for Those Other Expats: 台湾における日本人コミュニティーを探る
In the past weeks, the author has spent increasing amount of time interacting with the expat community here in Taipei through various meetup events of various "language exchange" and other dubious natures. These events, unfortunately, are primarily focused on an English-speaking foreign crowd, one that is primarily Western in both origin and interest, distinctively separate both in looks and cultures from the host society that is Taiwan. But without a doubt, this expat community, biggest as it may be, is not the only active one here in Taiwan. The non-English-speaking ones are just as important, just not as visible.
For the author, the search naturally takes him to the Japanese community, one that provides perhaps the largest number of foreign residents on this island. It is a community that, due to the cultural and linguistic gaps, remain entirely separate. They rarely seem to publicize their events, or seem to want too many new people from joining if there are any events. Or, on the flip side, the dominance of publicized events by English speakers further encourage them toward a characteristically Japanese manner of voluntary isolation, slowly growing membership through words of mouth alone.
It is fortunate, then, that the author found himself bumping into the Japanese community through some friends met at, ironically enough, strictly English-speaking language exchange events. Being multilingual does have its advantages sometimes...And as such, it is a good time that the language skill is put to good use for the Japanese audience. For the first time in years, this blog will produce some Japanese outputs (and only for the second time). It is just too appropriate that a venture into the Japanese community is recorded in the very language with which it proceeded.
場所は台北市内のとあるコーヒーショップ。十何人それぞれの日本人と台湾人が集まるいわゆる言語勉強会。この作者が到着した勉強会開始20分後では、すでに5-6人ずつ集まる各テーブルで教科書とノートが飛び回っていた。第一印象はとにかくその驚くほどの気合と集中力。お酒飲んで、へらへら笑いながら中途半端な発言の連続であっという間に終わる英語のミートアップと違い、心から「本気さ」を感じる。その文化(?)の違いを感心しながら、この作者も一応まともな会話をするつもりであるグループに突入。
正直に言って、日本語のコミュニティーで交流することはもともと原点が違うと考えてもまったく大げさな発言ではない。ほぼグループに入り込む途端で話の内容が一面的で明らかにおかしい。「あのさー、俺実は日本のほうが台湾よりぜんぜん好きなんだけど、まあ、台湾だったら安いし、日本に結構似てるから別にいいかなーって思って…」と初対面ほぼ十分内でこんなぶっ飛んだコメントをある日本人参加者からいただいた。「お前の建て前どこに言ってるんでよ!」と突っ込みたいところなのだが、横にいる台湾人の反応があまりにも「シーーン」としてる。
「あれっ」と思いながら、この違和感について考える。もちろん一人ひとりが必ずこんな発言をしてることでもないのだが、なぜかこういう日台交流会はやや不平等な雰囲気で囲まれつつある。よは、これらの台湾人連中には「ニュアンスを持った上から目線に納得するので、日本語を学び、日本の文化に興味を持つ」というメンタリティーがなぜか浸透してて、「日本=優等」がコンセプト化せざえおえない。勉強するさえ異文化を尊敬するのは当たり前だが、これはちょっとありすぎではないかと作者は思う。
ぶっちゃけ、この態度の違いが日本語と英語のミートアップの差だあるかもしれない。日本語の会はどう見ても会話の中心がジャパンになってしまうが、英語の会では各国の外国人が台湾にいて経験した数々の独特なストーリーが主なトピックで、会話の中心は最初から最後まで台湾と外国が文化の衝突で生むカルチャーショックなのだ。逆に、日本語で語る台湾はどうしても日本の視点である一定した枠にはめ込まれるので、台湾はどうしてもある意味で日本の海外代替品になり、意識下でありながらも常に日本と比較されている。
世界一親日と良く言われる台湾。だがその文化の独立性はいろんな理由で十分に認識されていない。これは日本人を含め、各国から来た外国人たちがここに来てから毎日改めて面する課題である。その課題の存在を頭にしっかりと置いておく中どう行動してゆくべきは台湾社会での地位を大きく左右できるかもしれない。だが、「主動的に理解する」ではなく「相手の理解を待つ」という態勢で日常生活に取り組むと、残念ながら人間は必ずだんだんと周辺化される。一外国人として、この作者もこんな思いやりを忘れない努力で精一杯だ。
For the author, the search naturally takes him to the Japanese community, one that provides perhaps the largest number of foreign residents on this island. It is a community that, due to the cultural and linguistic gaps, remain entirely separate. They rarely seem to publicize their events, or seem to want too many new people from joining if there are any events. Or, on the flip side, the dominance of publicized events by English speakers further encourage them toward a characteristically Japanese manner of voluntary isolation, slowly growing membership through words of mouth alone.
It is fortunate, then, that the author found himself bumping into the Japanese community through some friends met at, ironically enough, strictly English-speaking language exchange events. Being multilingual does have its advantages sometimes...And as such, it is a good time that the language skill is put to good use for the Japanese audience. For the first time in years, this blog will produce some Japanese outputs (and only for the second time). It is just too appropriate that a venture into the Japanese community is recorded in the very language with which it proceeded.
場所は台北市内のとあるコーヒーショップ。十何人それぞれの日本人と台湾人が集まるいわゆる言語勉強会。この作者が到着した勉強会開始20分後では、すでに5-6人ずつ集まる各テーブルで教科書とノートが飛び回っていた。第一印象はとにかくその驚くほどの気合と集中力。お酒飲んで、へらへら笑いながら中途半端な発言の連続であっという間に終わる英語のミートアップと違い、心から「本気さ」を感じる。その文化(?)の違いを感心しながら、この作者も一応まともな会話をするつもりであるグループに突入。
正直に言って、日本語のコミュニティーで交流することはもともと原点が違うと考えてもまったく大げさな発言ではない。ほぼグループに入り込む途端で話の内容が一面的で明らかにおかしい。「あのさー、俺実は日本のほうが台湾よりぜんぜん好きなんだけど、まあ、台湾だったら安いし、日本に結構似てるから別にいいかなーって思って…」と初対面ほぼ十分内でこんなぶっ飛んだコメントをある日本人参加者からいただいた。「お前の建て前どこに言ってるんでよ!」と突っ込みたいところなのだが、横にいる台湾人の反応があまりにも「シーーン」としてる。
「あれっ」と思いながら、この違和感について考える。もちろん一人ひとりが必ずこんな発言をしてることでもないのだが、なぜかこういう日台交流会はやや不平等な雰囲気で囲まれつつある。よは、これらの台湾人連中には「ニュアンスを持った上から目線に納得するので、日本語を学び、日本の文化に興味を持つ」というメンタリティーがなぜか浸透してて、「日本=優等」がコンセプト化せざえおえない。勉強するさえ異文化を尊敬するのは当たり前だが、これはちょっとありすぎではないかと作者は思う。
ぶっちゃけ、この態度の違いが日本語と英語のミートアップの差だあるかもしれない。日本語の会はどう見ても会話の中心がジャパンになってしまうが、英語の会では各国の外国人が台湾にいて経験した数々の独特なストーリーが主なトピックで、会話の中心は最初から最後まで台湾と外国が文化の衝突で生むカルチャーショックなのだ。逆に、日本語で語る台湾はどうしても日本の視点である一定した枠にはめ込まれるので、台湾はどうしてもある意味で日本の海外代替品になり、意識下でありながらも常に日本と比較されている。
世界一親日と良く言われる台湾。だがその文化の独立性はいろんな理由で十分に認識されていない。これは日本人を含め、各国から来た外国人たちがここに来てから毎日改めて面する課題である。その課題の存在を頭にしっかりと置いておく中どう行動してゆくべきは台湾社会での地位を大きく左右できるかもしれない。だが、「主動的に理解する」ではなく「相手の理解を待つ」という態勢で日常生活に取り組むと、残念ながら人間は必ずだんだんと周辺化される。一外国人として、この作者もこんな思いやりを忘れない努力で精一杯だ。
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