チャリティーの感覚 VS ビジネスの感覚

以前このブログをご覧になっていらっしゃる方はご存知かもしれないが、筆者が今務める組織はタンザニアの農民に対してローン方式でメイズの種や肥料を販売している。販売相手となる農民の中で、このような世界どこかの工場で大量生産された種や肥料を見たこともなく、その効果を心から疑っている人は少なくない。彼らが持つその根本的な疑いを収めるため、農村でこれらの商品を紹介する際、常にこのような言葉を使う:「私たちはこれらの商品を通じてあなたたちを助けに参りました!」

筆者がこの組織に来てもう一年三か月経つが、正直今でもこの「助ける」をベースにする会話にはすごく違和感を感じる。なぜならば、農民を「助ける」同時に、この組織は金利と商品販売のマージンから収入を得ているのだ。つまり、組織と農民の関係はあくまでもとあるサービスの提供者と購入者のものであり、確実に言うと「ビジネスパートナー」に限りなく近い。そうすると、提供されてるサービスは「助け」というよりも、いわゆる「ビジネスソリューション」と考えた方がより適切である。

「ただ呼び方が違うだけじゃないか?たいしたことじゃないだろ?」と思われる方もいらっしゃるかと思うが、「助け」と「ビジネスソリューション」の違いは決して書面上のものではない。その違いは取扱相手のメンタリティーに深くかかわるものである。ビジネスで売り手が賭けるのは投資した資金、狙うのはその資金を上回る利益。買い手が求めるのは払った価格と相当する、あるいはそれを上回る価値があるサービス。利益目当てとする両方は平等な関係を保つ。

だが「助け」を売りとするチャリティー行為はこれとまた異なる。弊組織のような売り手が「賭ける」のは貧困者に対する同情、狙うのはその同情を満たす満足感。売り手達は同情に溢れ、資金に困らない奴らばかりなので、金に関しては特に心配することない。買い手は貧困を抜け出す感動ストーリーで売り手の満足感を最大限にすると交換に価値があるサービスをできるだけ低コストにいただく。買い手が投資した資金は使われる一方で、その流出を食い止める努力は売り手に重要だと思われない。

さらに怖いのは、同情に対する思い。助けを求める農民たちにとって、同情は無限に存在し、いつまでも満たされないもの。だから資金が投入される次第、助けに終わりはないはず。そして、たとえ一人のサービス提供者が資金不足で助けを終わらせなければならない状況に陥っても、その身替りはすぐやってくる。貧困は絶えない=同情は絶えない=助けは絶えない、とすると手に入った「助け」をお金で買うのはおかしい。だから、チャリティーで金儲けなどできるはずがない。

しかし筆者が務める組織は本質的にチャリティーではないはず。大赤字にならないように商品価格を設定してるし、ローンの返済にも力を入れている。コストが高すぎると躊躇するし、いつか完全に寄付金頼りでなくなる夢も見ている。そんなお金に慎重な組織が成功するには顧客となる農民たちも同じ心遣いがなければ難しいだろう。だが、その農民たちに「助け」という言葉を売りにし続けるのであれば、たとえローンの返済に問題がなくても、彼らは納得しない。助けは無料であるべきだから。

農民たちのメンタリティーを変えるには「助け」という言葉を捨てる以外ない。この組織が提供してるのはフワッとしている曖昧な「未来への希望」ではなく、利もあり害もある商品だけだ。もちろんその商品らについては適したものを勧め、必要な使用方法を説明するが、最終的に農作成果の責任を取るのは農民たち自らである。世の中に万能な商品や「助け」など存在しない。効果があるものを見極め、そこにお金と努力をぶつけるほかに成功する道しかない。このようなメッセージを人々に伝えるべきだ。

そして農民たちにも弊組織の困難を理解してほしい。世の中の寄付金は無限ではないし、貧困人口で割ると一人あたり投資できる量はほんのちょっとだけ。これだけのお金では平等に使うと誰一人貧困から抜き出してあげられない。もし社会全体が貧困を脱出するのであれば農民たちから必要なものは感動的なストーリーではなく、ざっくりと言って、彼らのお金だ。彼らがビジネスパーソンとして自らの需要を把握し、理屈なくお金を払ってくれれば、筆者らの一番大きい「助け」になる。

Comments

Popular posts from this blog

Trump Should Remember that He is Just as Expendable as He Believes Others to be

Rethinking Human Value Beyond Wealth

Lazy Stereotypes Hampers Real Intercultural Understanding