First Post in Japanese: 民族とアイデンティティーの関係は一体何なのか...

For some reason or the other, a Chinese guy ended up becoming the main teacher for the advanced language class offered by the Japanese Society here at the LSE. At such a "joyous" occasion, it is perhaps a good timing for me to finish my "foreign language trilogy" with a post in Japanese (after the Chinese and the Korean ones). It is, like so many other ones before, another rant detailing my struggle with a constant, lifelong identity crisis.

すらすらと日本語のレポートとメールを書いてた楽天時代かわずか5ヵ月後、まさに一センテンスを打ち出すことさえ困難となっているこの私がまさか日本語教師と変身するのは、正直、自分の結構変わった頭でも創造できないものでした。もちろん、ここで突然自信をなくして、自分の能力を疑っているわけでもないのですが、この状況はどう考えもどこが「変」です...と言うか、息苦しい日本の企業文化を代表する所謂ビジネスマナーを日本に対して理想を持っている外国の方々に教えるのは、「風刺」と言うしかないかとも思ってます。

シニカルになる一方、逆にこのような「珍しい」機会もまた「自分は一体何か」を再度深く考えてみるチャンスでもないでしょうか?韓流ポップを聞きながら、中国語のニュースを読みながら、アメリカにいる友達について考えているこの自分が日本語を教えるなんてまさに能力はずれの「光栄」ではないか...そして、いざその意外な熱心で「授業」を準備し、行う自分を見て、本当の、もう一人の自分はバイアスなしで判断するとどう表現したらいいのか?その答えはこの砕け始めている日本語のレベルでは、言い切れないものであるのかもしれないようだ...

社会理論者は「民族」を個人アイデンティティーの一重要な要素と考えるのを一般的な常識としている。寮の食堂で気楽に中国人に声をかけて一緒に楽しく食事をする自分を考えてると、まあ、そのような理論は完全にロジックには会っているはずだ。だが、その楽しい一時間の会話でも頭の裏のどこかで「自分はこいつらとどこかが違う」と言う思いがついつい飛び出して、意識的に取り外すことができない。「アメリカに住みつけたから普通に中国人と思われたくないんじゃない?」と良く指摘されるが、なぜかそれよりも複雑な答えが割るような気がする...

実際に考えてみれば、個人の民族にかかわらず、長年海外に住む人たちはなぜか全員このような傾向があるような気がする。中国は国家として結構ひどいイメージ問題があるから「中国人になりたくない」と言うのは、もちろん、100%理解できる要望だが、実際にポジティブな海外印象しかない母国を持つ人々からも「国に帰りたくない」的な話を良く聞く。最近海外に出たばかりで母国の弱点を良く知る留学生は別として、母国を幼いころからはなれ、マスコミと両親からもらった片っ端の印象で好き勝手に母国を嫌うやつらは何を考えてるのか?

もはや、自分の民族を逆にアイデンティティーから一生懸命抜き出すのは、その自分を代表する民族に対しての理解、知識があまりにも中途半端すぎて、「恥」であるこそだろうか?それとも、ただ、比較的に謎とミステリーに囲まれたほかの民族があまりにもエキゾチックでカッコよすぎるからだろうか?特に、自分をはじめとする、努力して同民族の人たちと違いを主張し、ちょっとだけでもの他民族との言語、文化共通点に食いつく人たちは何かしらの「自己不満」でモチベーションを高めてるのだろうか...「自分から逃げ出す」のを恥にしないのもアイデンティティーの一部なのか?

と、自分は英語の授業を聞きながら、日本語で一杯の頭で想像し続けた。自分のアイデンティティーを一生に明確にすることはできないと断念した自分は、いくらこんな質問の連発でも、良い回答はちっとも返ってこない。日本、中国、アメリカ...数々のコネクションはただの言語だけではない(まあ、日本語を教え、作文に落としてみると「全然流通じゃないね...ってか、まるで考えのつながりは悪い子供じゃん!」とも言える)...だが、同時に、文化でもない(どの国の人と話しても、本当はその国の文化を知ってないことに気づく)、じゃあ、残り、まだ何があるんだろう。

結局、アイデンティティーと言うものって、たぶん、自分が自分を理解する立場で見るより、第三者の目線を使ったほうが複雑さを減らせるのだろう。人として、積極的に「自分は何々です」の自己判断を意見として他人に伝えるのを一ミッションにするより、ただの事実を述べ、相手に判断してもらうほうが正しいのではないか。「えっと、自分はどこどこから参りまして、何々にしておりました...」と数ヶ月、数年のお付き合いから聞き手は自分の勝手な想像よりもっと確実な論理で自分のアイデンティティーを探って、分析して、思いをこめて教えてくれるだろうかと思い始めてます...

Comments

Popular posts from this blog

Sexualization of Japanese School Uniform: Beauty in the Eyes of the Holders or the Beholders?

Asian Men Are Less "Manly"?!

Instigator and Facilitator: the Emotional Distraught of a Mid-Level Manager